読書ノート、邪馬台国がみえてきた6

銅鐸は、長い間、日本古代史最大の謎であった。銅鐸は、弥生の集落から離れた小高い丘陵上からまとまった形で出てくる。近年、それは水の神の祭祀に使われたという説が出てきた。井戸枠のそばに銅鐸を祭った例が見られる。鳥取県荒神谷では、大量の鉄剣が神宝として土中に埋められていた例から考えて、銅鐸は、普段は土中に埋められていて、水の神の祭のときだけ掘り出されるというよにも考えられる。近年まで、銅鐸は近畿地方で独自に創作されたと考えられていた。いくつかの新発見を通じて、朝鮮半島にある銅鐸に似た祭器が北九州を経て近畿地方に広まったする意見が有力となる。1997年、大分県宇佐市別府(びゆう)遺跡で、朝鮮半島から輸入された小型の銅鐸が発見されて、朝鮮の銅鐸が日本の銅鐸の祖型だとする意見も出されたが、別府遺跡は、近畿地方に銅鐸が広まった時代よりあとの3世紀末につくられた時代のものであるので、別府のものは、特殊な例であると考えられている。それから、北九州の各地で小型の銅鐸が続々と出てくる。銅鐸を鳴らすタイプのものも出てきている。1986年、近畿地方の銅鐸が九州のものに由来ことを決定づけるとされる小銅鐸が発見された。福岡県嘉穂町原田遺跡から出土したものは、近畿地方の銅鐸より百年前のもので、かなり小さく、朝鮮半島のものに近い。銅鐸が近畿地方で大型化したのは、水の神の祭器として重要になったからである。銅剣や銅矛の祭祀が盛んであった北九州では銅鐸を用いた祭祀は広がらなかった。ところが1999年に大阪茨木市東奈良遺跡から1世紀ごくはじめの小銅鐸が出たことで、銅鐸近畿発生説が成り立つ可能性も出てきている。