読書ノート、邪馬台国がみえてきた8

縄文時代の人びとは、死者を集落の中央の広場に葬っていた。弥生時代の始まりとともに、墓地は集落から少し離れたところに設けられた。弥生時代前期の中頃から、共同墓地の首長の墓に目印の巨石を置くようになる。それが支石墓で、それから土を盛り上げたところのに共同墓地をつくる。首長の墓は、墳丘の中心部につくられた。吉備で弥生時代後期に墳丘が巨大化する。それから、大和で吉備の墳丘墓を発展させた古墳が発生。周溝墓は、弥生時代開始後まもなく出現。墓の周囲を溝で区切って、四辺形になっているものが多い、方形周溝墓。朝鮮半島からは、周溝墓は見つかっていない。発生期の周溝墓の多くは、共同墓地の外れにある。墓地の中の首長の墓を特に区別するために周溝墓は設けられた。周溝墓の首長のために死後の領域を設ける発想が古墳づくりに受け継がれる。周溝墓は、形や大きさ等様々であるが、弥生時代を通じて急速に増加する。

周溝墓の副葬品は、少ないが、弥生時代後期、古墳時代前期、中期には、贅沢な宝玉を納める例が出現する。古墳の発生後まもなく、墳丘墓は姿を消す。古墳時代になっても、かなりの数の首長が方形周溝墓を作らせていた。大和朝廷に従わない首長が周溝墓を作り続けた言うのは、単純すぎる。根本のところは、古墳を作るか周溝墓を作るかは、信仰の違いよっていたのだろう。古墳時代中期に大型の周溝墓が集中して出現して、まもなくして姿を消す。大和朝廷の圧力が強くなった様子がわかる。6世紀の古墳時代後期になると、古墳の数が急速に増加する。群集墳と呼ばれる小型の古墳が多くつくられた。