読書ノート 邪馬台国がみえてきたーちくま新書、著者ー武光誠 1

弥生時代の前期には、すでに青銅器の製造が始まっていた。2000年に和歌山県御坊市堅田遺跡から紀元前2世紀あるいは、紀元前3世紀の青銅器工房が発見された。紀元前250頃のヤリガンナの鋳型の一部も出土する。吉野ケ里では弥生時代前期の青銅器工房が見つかっていた。1999年大阪茨木市東奈良遺跡で弥生中期の小型の銅鐸が出土。小型の銅鐸は、それまで北九州で発見されていたから、銅鐸は、北九州から近畿地方に広がり大きくなったと考えられていたが、銅鐸が近畿地方で生まれた可能性もでてきた。1998年天理市黒塚古墳の発掘で、3世紀末の大和の文化の高さが明らかになり、邪馬台国が大和にあった可能性を示すものとされた。吉野ケ里は、弥生時代を知る上で最も重要な遺跡であるが、吉野ケ里の全盛期は、邪馬台国時代の百年余り前である。北九州では、紀元前50年頃、奴国が強大化したり、伊都国が栄えたりしていた。邪馬台国は、180年頃奴国や伊都国を支配していた。菊池川上流の熊本県うてな遺跡は、邪馬台国と同時代の遺跡であり、狗奴国はうてな遺跡の近くにあった可能性がある。時代が下がるに従って奴国や吉野ケ里の反対の瀬戸内海方面の文化が豊かになる。大和の勢力が北九州まで伸びて来たからであろうか、瀬戸内海は北九州と大和を繋ぐ海の道であった。