読書ノート、邪馬台国がみえてきた3

弥生時代、人口1000人から3000人程度の小国が多くあった。吉野ケ里はその姿を伝えている。敵に対抗するための環濠集落とその周辺のわずかな農村が小国を形成していた。環濠集落は小国の構成員を守るためであり、また祭祀の場でもあった。吉野ケ里の全盛期は1世紀の中頃で、邪馬台国の時代は、それより150年後。纒向遺跡は、3世紀はじめから4世紀にかけて営まれたもので、発生期の大和朝廷の跡だといわれている。邪馬台国大和説は、纒向遺跡こそ邪馬台国だと言いたいところ。また、北九州説では、纒向遺跡ぐらいの規模の遺跡を発見したいところである。邪馬台国の時代、吉備までは中国との交易圏。