読書ノート、邪馬台国がみえてきた5

3世紀末頃までに、日本列島の西半分は、いくつかの地域国家に分立する動きがあった。北九州、吉備、出雲、大和にそれぞれ一個の地域国家ができたと考えられる。この流れを力ずくで曲げて西日本を統一したのが大和朝廷大和朝廷が北九州を支配したのが4世紀の初め頃。大和朝廷の支配前、小国が分立していたが、盟主となる有力なものも存在していた。北九州の小国は、紀元前1世紀末の江南の航海民の移住に始まり、大陸の影響を受けながら交易国家として発展した。後漢書には、107年に帥升後漢から倭国王にされたことが記されている。交易国家群が一つのまとまりを指向しはじめていたと考えられる。

吉武高木遺跡は、紀元前1世紀末に作られた遺跡で、福岡市西区の早良平野にあり、早良国とよぶべき小国の王墓にふさわしい。墳墓は簡単なつくりだが、そこの一基の木棺から、豪華な青銅器の副葬品が出てきた。吉武高木遺跡の特徴は、平凡な墓と第一級の副葬品。その年代は、中国では、前漢の時代である。前漢朝鮮半島楽浪郡を通じて積極的に東方経営を行っていた。漢書の地理志の中に倭人の記事がある。“夫れ、楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を似て来たりて献見すという”倭人の多くは楽浪郡と交易していた。倭人は、前漢の皇帝に使者を送ってはいない。もし送っていれば、中国の歴史として漢書の本紀にも列伝の四夷の部分にも倭人のことが記されたことだろう。この頃の北九州の小国は、危険を冒して朝鮮半島にわたり、祭祀で使う銅鏡や銅剣や農具用の鉄を手に入れていた。その頃の北九州の小国の首長は、水軍を率いる優れた指導者でなければならなかった。吉武高木遺跡の墳墓群は、航海民の指導者とその従者を葬ったものである。北九州の発生期の小国の首長は、航海術海戦術に長けたカリスマであった。